すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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03 24

2019年3月24日説教(ルカ17:11-19、癒しから救いへ)

1.十人のらい病者の癒し

・ルカ17章には、イエスがエルサレムに向かわれる途上で体験された一つのエピソードが記されています。「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」(17:11)。ユダヤ人は異邦人と混血したサマリア人を嫌い、彼らと交わろうとしませんでした。ですからガリラヤからエルサレムに向かう時、サマリア地方を通る道筋が近いのに、あえてサマリアを迂回してヨルダン川東岸を通ってエルサレムに向かいました。「エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とは、そのことを意味しています。サマリアは、かつては北王国があった場所ですが、紀元前8世紀に北王国はアッシリアに国を滅ぼされ、住民の多くはアッシリアに強制移住させられ、残った民はアッシリアから移民してきた民族と混血していったため、ユダヤ人からは汚れた民族として忌み嫌われ、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになりました。イエスが育ったガリラヤはユダヤ人の町でしたが、ガリラヤのユダヤ人がエルサレムに上る時は、サマリアを迂回していくのが普通でした。
・イエスがある村に入られると、ハンセン病を患っている十人の人が出迎えたとルカは記します「ある村に入ると、重い皮膚病(らい病)を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて『イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください』と言った」(17:12-13)。らい病(ヘブル語ツァーラト)は伝染病として、また神から呪われた病とされて、人々から忌み嫌われていました。そのため、「自分はらい病なので近寄らないでくれ」と叫ぶことを義務付けられていました(レビ記13:45-46)。だから彼らは遠くからイエスに癒しを呼びかけています。イエスはガリラヤでらい病の人を癒されており(5:12-16)、その評判がこの村にまで聞こえ、病人たちがわらをも掴む気持ちで出てきたのでしょう。らい病の人々はほかの人々と共に住むことは許されていなかったので、その村はらい病者を隔離した集団居留地(コロニー)だったかも知れません。マルタとマリアが住んでいたベタニア村も、らい病患者のための村だったと思われています(マタイ26:6)。
・らい病人の集団にはユダヤ人もサマリア人もいました。ユダヤ人とサマリア人は反目し合っており、通常は共に住むことはあり得ません。らい病という共通の困難な苦しみが民族対立の壁を破らせ、彼らを一つにしていたのでしょう。その彼らにイエスは出会われました。イエスは彼らを憐れみ、言われました「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(17:14a)。律法では、らい病を癒された者は祭司の所に行って体を見てもらい、癒されたことが確認されて清めの儀式を行えば、社会の交わりの中に復帰することが許されるとあります(レビ記14:19-20)。
・十人はイエスの言葉を受けて祭司の所に向かいます。これは必死の信仰です。癒されるかどうかもわからないのに祭司の所に向かい始めているのです。その彼らの信仰が彼らの病を癒しました。道の途中で「彼らは清くされた」とルカは記します(17:14b)。ここで病気が癒されたことが、「清くされた」と表現されています。病気は罪の結果だと考えられていましたので、清められる事が必要だったのです。

2.一人のサマリア人の救い

・さて、病気を癒された十人のうち、サマリア人だけがイエスのもとに帰って来ました。他の九人は癒されたことをできるだけ早く祭司に証明してもらうために、神殿に向かいました。しかしサマリア人は戻ってきました。彼は、サマリア人ですからエルサレム神殿の祭司は彼の清めを祝福しないからです。同時に彼は、その前にやるべきことがあると思ったのです。「神のみがらい病を癒しうる。だから行くべきは祭司の処ではなく、癒しを執り成してくださったイエスの処だ」と思ったのです。だから「大声で神を賛美しながら」(17:15)、イエスの許に戻ってきたとルカは伝えます。
・サマリア人一人がイエスのもとに戻りました。イエスは彼を見て言われます「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(17:17-18)。彼ら十人の群れは同じらい病であった時は、生活の絆が固く保たれていました。しかし一度病が癒されると、ユダヤ人はユダヤ人、サマリア人はサマリア人に分離してしまいます。同じ恵みをユダヤ人は当然として感謝せず、サマリア人だけがそれを感謝して受け入れた。サマリア人は一人にされましたが、彼の顔は輝いています。神に出会ったからです。イエスは彼に言われます「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(17:19)。癒されたのは十人でしたが救いの宣言を受けたのは一人でした。
・私たちは体の癒し、病気からの解放を求めます。それは切実な願いです。らい病を癒された十人の患者たちは必死に神の憐れみを求め、そして癒されました。しかし、イエスのもとに帰ってきたのは一人だけでした。この話が私たちに語りかけていることは、「十人が癒されたが、救われたのは一人だけだった」ということです。癒し(イオーマイ)と救い(ゾーエー)は異なるのです。現代でも、多くの人が病気の癒しや困難からの解放を求めて教会に来られます。そして御言葉に接し、自分を取り巻く困難が今までとは違うように見えてくる経験をされます。貧しいことが必ずしも不幸なことではなく、病気も神と出会うための契機であったと受け入れることが出来るようになり、感謝してバプテスマを受けます。しかし、1年たち、2年たち、最初の感動は薄れ、牧師や教会の人々との人間関係に息苦しさを覚え、次第に教会から足が遠のいて行きます。多くの人が癒されますが、救われる人は少ないのです。
・信仰には、“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあることを前に紹介したことがあります(赤星進「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰は、「自分のために神をあがめていく信仰」です。熱心に聖書を読む、礼拝に参加する、だから癒して下さいという信仰です。しかし、この信仰に留まっている時、やがて信仰は失われます。もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、「神によって生かされていることを信頼する信仰」です。イエスは言われました「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」(12:32)。信仰が “神の業としての信仰”へ成長する時、信仰の崩れはありません。何故ならば全てのことが、良いことも悪いことも、御心として受け入れられるからです。イエスはサマリア人に言われました「立ち上がって行きなさい」(17:19)。サマリア人は神の業に参加するよう召命を受けたのです。彼は祝福を受ける者から祝福を運ぶ者に変えられていったのです。

3.神の国は来た

・今日の招詞にルカ17:20−21を選びました。次のような言葉です「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。当時のイスラエルはローマの植民地でした。このことは、「自分たちは神の選びの民」と信じるイスラエル人にとっては耐えられない現実でした。彼らは神がこれら異邦人を滅ぼすために、メシア(救世主)を遣わし、いつの日か自由になる日が来ることを待ち望んでいました。だから彼らはイエスに尋ねます「神の国はいつ来るのですか」。
・それに対してイエスは答えられます「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。神の国は既に来ている、私の到来と共に来た。今あなた方の目の前で、十人のらい病患者が癒されたではないか。こんなことはこれまでなかったことだ。イエスは先に語られました「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(11:20)。今起こりつつある事柄を見てみなさい。イザヤが預言したように、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」ではないか(7:22)。あなたがたは私をメシアと認めない、だから神の業が為されても、ここに神の国が来たことが見えないのだとイエスは語られました。
・ファリサイ派はイエスをメシアと認めることが出来ませんでした。彼らの求めるメシアはユダヤをローマ帝国のくびきから解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄光を与えるメシアでした。現在もユダヤ人はイエスをメシアと受け入れません。著名なユダヤ教神学者マルテイン・ブーバーは語ります「イエスにおいてメシアは来ているとの主張は真実でありえない。さもなくば、世界はこのように全く贖われていないように見えるはずはない。それゆえ、なお来るべきメシアというユダヤ教の期待はより信頼に値する」。確かにこの世はまだ贖われていない、罪の世界です。しかし、その荒廃の中にイエスが来られ、イエスに従う少数の弟子たちが現れました。
・イエスをメシア(キリスト)と信じる「キリストにある愚者」が起こされたことこそ、神の国が来た証しです。キリストにある愚者は、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちであり、この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されているのです。神の国は既に来ている、私たちこそその神の国の住民なのです。サマリア人はらい病を患っているコロニーでは民族の差別を受けることはありませんでした。そしてそれはイエスのおられるところであればどこでもそうなのです。新しい年の教会の目標は「違いを受容し、喜び合う教会」です。日本人も外国人も共に礼拝できる教会を形成するために、新しい年の誓いを私たちは立てました。


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03 17

2019年3月17日説教(ルカ16:19−31、何もしなかった罪)

1.金持ちとラザロの物語

・聖書教育に従ってルカ福音書を読んでおります。本日はルカ16章後半の「金持ちとラザロの物語」を聞いていきます。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし誰にも分らない。聖書でも死後の世界が語られている箇所は意外に少ない。その中で今日の「金持ちとラザロの物語」は、死後の世界を描く貴重な個所です。
・物語は三幕の劇のように構成されています。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場します。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は多くの農地を持つ地主で、働かなくても十分な地代が入り、裕福な生活をしていたのでしょう。彼は特に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもありません。ただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っています。その金持ちの屋敷の前に貧乏人ラザロが連れて来られました。彼は飢えと病気で動けず、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていましたが、ただ犬が来て傷をなめるだけでした。金持ちはラザロに無関心で、彼のために何もしませんでした。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままです。
・第二幕は22節から始まります。ラザロも金持ちも死にましたが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれています。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いし、ラザロは食べるものもありませんでしたが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き、金持ちは苦しんでいます。金持ちは苦しさのあまり、天国のアブラハムに呼びかけます「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。
・生前に金持ちはラザロを貧乏人として馬鹿にしていました。今でもラザロを召使のように思っています。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求めています。アブラハムは金持ちの呼びかけに冷たく答えます「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(16:25)。さらにアブラハムは冷たく宣言します「私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」(16:26)。人は生きている間に何をしたかで死後の運命が決まる。「自分のことしか考えなかったお前は神の国に入ることはできないのだ」と宣告されています。

2.生きている間に悔い改めよ

・三幕目は27節から始まります。金持ちは自分のことはあきらめましたが、兄弟のために救いの使者を送ってほしいと願います「私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えましたが、アブラハムはこの願いも拒絶します「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(16:29)。「モーセと預言者」、聖書のことです。
・律法は何を命じているか。申命記には次のような言葉があるではないか「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」(申命記15:7-8)。また同じく申命記には書かれているではないか「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(申命記8:17-18)。「モーセと預言者」、すなわち「聖書」に書いてある通りにすればよいのだと。
・金持ちは反論します「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等のしるしが与えられれば兄弟たちも信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶します「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を通して神の御旨は明らかになっている、聞こうとしない者が悪いのだとアブラハムは言いました。しかし、神は私たちにもう一度機会を与えてくれました。それがイエスの死と復活です。だから私たちは「主は復活された。復活の主の言葉を聞け」と宣教を続けるのです。しかし、多くの人はその声に耳を傾けません。この金持ちのように、「聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしません」。しかし「悔い改めない者は滅びる」(ルカ13:3)とイエスは言われます。

3.この小さき者にしたことは私にしたことだ

・この物語は因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言われているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに陰府で苦しむ」のでもありません。この金持ちは富を自分のためだけに用いた。神から与えられた富を自分のためだけに使うことは、不正であり、責任を問われることだと言われています。イエスは先に言われました「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(6:20-25)。
・物語の貧しい人の名前はラザロです。ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いから神に依り頼んだ、そして神は彼を「助けられた」。金持ちは富があるから富に依り頼んだ、その結果、神の救いからもれた。「人は神と富の双方に仕える事はできない」(16:13)、もし金持ちが生前のラザロに気を配り、彼を食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神がおられることを知り、何かを為すことができたでしょう。現在の幸福、自分の幸福だけを追い求める人は将来の滅亡を招くのです。
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。金持ちの罪は「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。カール・バルトは1931年の説教の中で語ります「聖書において神と呼ばれている方を捜し訊ねる者は、その方をラザロの所で探し訊ねなければなりません。ラザロの傍らを通り過ぎる者が、神を見出すことは断じてないでしょう。金持ちの男は、自分の門前でラザロを横たわらせたままにしておき、ラザロを見ようともしなかった故に、神を見出さなかったのです。その故に後で地獄に苦しむしかなかったのです・・・もしあなたがラザロといかなる関りを持とうとしないのならば、あなたは神ともいかなる関りをも持たないのです」(カール・バルト「聖書と説教」p135)。私たちは隣人を通して神に出会う、「隣人の横を通り過ぎる者は神に出会うことはない」と語られています。その真意は、良きサマリア人のたとえにも通じます。倒れている人を見ないようにして通り過ぎた祭司やレビ人も救いから漏れるのです(ルカ10:31−32).
・この「金持ちとラザロ」の物語を、自分に語られた言葉と聞いて、人生が変えられた人がアルベルト・シュバイツアーです。シュバイツアーはその半生をアフリカの医療のために捧げた人ですが、彼がシュツトラスブルク大学の神学教授の職を捨てて、医者として赤道アフリカに行ったきっかけは、30歳の時にこの「金持ちとラザロの話」を読んだのがきっかけです。かれは自伝「水と原生林のはざまで」で書きます。「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。
・私たちはシュバイツアーではありません。しかし、同じように「金持ちとラザロの話」を読みました。何かを行う事が求められています。私たちがクリスチャンであるかどうかは、私たちが人を愛するかどうかにかかっています。人を愛するとは相手に関心をもっていくこと、相手が困っていればそれを自分の問題として考えることです。具体的には、「自分の財布を開き、自分の時間を割く」ことです。申命記は私たちに警告します「富を築く力をあなたに与えられたのは主である」(申命記8:17-18)。私たちが持っているものは、私たちが手に入れたものではなく、神の憐れみによって与えられたのです。ですから、神から預けられたものを神に返していく。多くの人は、今を満ち足りることだけを求め、その先のことを考えようとしない。しかし彼らも死ぬ、その時に「どのように生きたか」の責任が問われるとイエスは語られます。
・この世で富んでいてもそれは一時的なものであり、死ぬ時には持っていけない、死ぬ時に持っていけないものに支配されるなと言われているのです。世の金持ちは、本当は不幸なのです。何故なら、彼は満ち足りているゆえに、この真理を知らないし、知ろうともしないのです。だからイエスは言われます「富んでいるあなたがたは、不幸である・・・今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」(ルカ6:24-26)。私たちは経済的な貧しさや挫折や苦難を通して、この真理を知りました。だから、バプテスマを受けてキリスト者となりました。「そこからもう一歩踏み出しなさい。自分の財布を開いて、そのお金を天に積みなさい」と招かれていることを、今日は共に覚えたいと思います。


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03 10

2019年3月10日説教(ルカ13:1-9、悔い改めなければ滅びる)

1.悔い改めなければ滅びる

・本日はルカ13:1-9の物語を共に読んでいきます。「悔い改めなければ滅びる」とイエスが強調されるルカ福音書だけにある話です。物語は、イエスが話しておられた時、何人かの人が来て、「総督ピラトが巡礼に行っていた私たちの仲間のガリラヤ人たちを神殿境内で殺した」と報告するところから始まります。イエスはガリラヤ人です。そしてイエスの話を聞いていた人々もガリラヤ人です。そのガリラヤ地方は、熱心党と呼ばれる反ローマ運動の中核となっていた場所です。イエスの弟子の中にも熱心党のシモンがいます(6:15)。ローマは熱心党の運動を社会の治安を乱すものとして警戒しており、総督ピラトが、反ローマ運動を行うガリラヤ人の集団がエルサレム神殿で犠牲の捧げものを捧げていたところを、武装兵士たちに襲わせ、殺した。それがルカでは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と表現されています(13:1)。
・「仲間たちが神殿で礼拝をしている時にローマ総督に殺された、神はなぜこのような不条理を許されるのか」と人々はイエスに問い詰めました。それに対してイエスは答えられます「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:2-3)。当時のユダヤ教では、律法を守って罪のない生活をしていれば、災いが臨むことはないという因果応報を教えていました。だから人々は「仲間のガリラヤ人たちはなぜ殺されたのか、罪を犯したからなのか」と問うてきました。しかしイエスはこれを否定されました「決してそうではない。彼らが特に罪深かったのではない」。
・「神の宮で礼拝をしていた時に殺された」、これは当時のガリラヤの人々には衝撃的な事件でした。ピラトは冷酷な人物であったとされています。イエスを処刑する命令を出したのがこのピラトでしたし(紀元30年)、紀元35年には独立運動を行うサマリア人たちがゲリジム山で礼拝をしている時に、兵士たちに襲撃させ、多くの信徒たちを殺し、そのためにローマ皇帝に訴えられて更迭されています。民衆は、「礼拝する信徒を、神は殺されるままにされたのか、何故介入されなかったのか」とイエスに迫ったのです。
・歴史上、「神の摂理」疑われた大事件が、1755年11月1日に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)です。その日はカトリック教会の「聖人の日」で、多くの信徒が礼拝に参加していましたが、突然の大地震で聖堂は崩壊し、引き続き起こった津波で多くの人が亡くなり、犠牲者は10万人を超えたとされています。カトリック国の中核の地で、大勢の信徒が教会堂で礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、死んで行ったのです。人文学者ヴォルテールは「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲なのか」と語り、人々の信仰は大きく揺すぶられました。この時、「地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではない」と主張したのが、哲学者のインマヌエル・カントです。
・イエスは次にシロアムの塔崩壊で死んだ十八人の例を示し、「彼らもまた罪の罰で死んだのではない。あなたたちも悔い改めなければ同じように滅びる」と戒められます(13:4-5)。このシロアムの塔は大規模な水道工事のために建てられた水道塔であったようです。ピラトはこの水道工事の費用に充てるためにエルサレム神殿の金庫から多額のお金を引き出し、それに抗議したユダヤ人たちに軍隊を差し向けて、多くの死傷者を出しています。そのようないわくつきの水道の塔が建築工事中に倒れ、工事に従事する人々が亡くなったようです。当時ファリサイ派の人々は「異教徒のローマ人に協力したから天罰が当たった」と言いましたが、イエスは明確にこれを否定されたとルカは伝えます。

2.現代の私たちは因果応報を信じていないが

・現代の私たちは災害や病気が神から来るのではなく、それぞれに原因があることを知っています。創価大学の中野毅氏は論文の中で語ります「多くの国民は、3.11に東日本を襲った大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『宿業』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った。宇宙の誕生から人類としての進化過程も解明されてきた。病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かってきた。そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も,経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている。われわれは運命、宿業、神の命令などの超越的な存在や時間に依拠しない生活を始めており、天災や人災、飢餓や病気への対策も、宇宙や世界の捉え方も、世俗的な時間や空間において考えている」(創価大学社会学報、2012.3)。
・しかし、その現代人も、「大災害の中で、私は生き残って、あの人は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか、という実存的な問いに応えることはできない」と中野氏は語ります。ここにイエスが2000年前に提起した問い「悔い改めなければ滅びる」が、今日においてもなお大きな意義を持つことが示されます。そのイエスが語られた回答が、次に来る「実のならない無花果のたとえ」です。
・葡萄と無花果はイスラエルの象徴ですが、その無花果の木が三年たっても実がならず、園の主は木を切り倒せと命じます(13:6-7)。譬えの葡萄園主は神で、無花果の木はイスラエル民族を指しているのでしょう。何年経っても悔い改めの実を結ばないイスラエル民族を滅ぼせと神が命じられます。それに対して園丁が答えます「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(13:8-9)。無花果の木を伐採せよと命じられた園丁は、「もう一度手入れし肥料を与えますから、伐採を待って下さい」と主人に願います。園主は神で、無花果の木を懸命にかばう園丁はイエスでしょう。神はいつまでも実を結ばない私たちに対して、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と宣言されます(3:10)。しかしイエスの執り成しによって、私たちは切り倒される危機を猶予されただけでなく、新たに肥料が与えられることを通して、再生の機会が与えられます。

3.不条理を超えて生きる

・今日の招詞に、ロ−マ8:34を選びました。次のような言葉です。「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。人生は予測不能な出来事で満ちています。3.11の大震災も人間には予測不能な出来事でしたが、出来事に遭遇した人々の人生は大きく変えられていきました。その3.11の東北大震災から8年が経ちました。原発事故の影響もあって、未だに10万人以上の方が避難生活を送っておられます。
・今回の震災を通して、「神が創造した世界において、何故多くの人々が悲惨な体験をしなければならないのか」ということが、繰り返し問われて来ました。大震災において2万人以上の人々が犠牲になり、生き残った人たちの中には家族を失い、家を失い、工場や商店を失い、身よりも財産もなくなった人たちがあります。町や建物が復興しても、家族を亡くした方々の心は復興していません。先に引用しました創価大学・中野毅先生が問われた問い、「大災害の中で、私は生き残って、あの人は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか」は、答えられていないからです。
・東北学院大学・原口尚彰先生は震災直後の2011 年6 月7 日に「神への問い」と題する説教をされました。先生は語ります「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このようなことが起こるのか、罪ない人が被災し苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。実際に同様な問いを東日本大震災に関して、日本に住む少女がローマ教皇に問うたところ、教皇は率直に『自分も同じような疑問を持っている』と述べたそうです」。誰にも答えられない問いなのです。
・先生は続けられます「良く考えてみると、この問いは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(我が神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか)」という十字架上のイエスの問いでありました(マルコ15 : 34)。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかということは大きな謎であり、不条理でした。それは、そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということに他ならないと思います」(東北学院大学『説教集』第16 号、2012 年3 月から)。
・不条理を超える力を人に与えるものがイエスとの出会いです。夜通し漁をして何も取れなく失望していたペテロがイエスの言葉に従って網を下した時大量の魚が採れ、ペテロはイエスの弟子となって行きます(5:1-11)。町中の人から嫌われていた徴税人ザーカイもイエスと出会うことによって、新しい命に生きる者となりました(19:1-10)。私たちもある時、イエスに出会い、従うように招かれて、この教会堂にいます。私たちは、私たちと共に不条理を経験された方が今、天におられ、私たちの叫びに耳を傾けていて下さることに、希望をかけています。「悔い改めなければ滅びる」ということは、「悔い改めれば滅びない」ということです。ルカは16章「金持ちとラザロのたとえ」の中で、金持ちに語らせます「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(16:30)。しかしアブラハムは答えます「もし、モーセと預言者(すなわち聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を一人で読んでも駄目であり、だれか伝える者がいなければ悔い改めは生じません。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10:14)。伝える者として、私たちがここに存在するのです。


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03 03

2019年3月3日説教(ルカ11:1-13、求める者には与えられる)

1.主の祈り

・ルカ11章は主の祈りを紹介しています。ルカは記します「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った」(11:1)。その弟子たちの要望に応じてイエスが祈り方を教えてくれました。それがルカ11:2にあります「主の祈り」です。「そこでイエスは言われた。『祈る時には、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように』」。主の祈りはマタイ6章にもありますが、マタイの祈りは礼拝で用いられた祈りであり、ルカの祈りはマタイに比べると簡潔です。おそらく、ルカの祈りが、イエスが教えられた原型であり、マタイはそれを元にして作られた教会の礼拝での祈りを紹介しているとされます。私たちが通常唱える祈りはマタイ版ですが、今日は主の祈りの原型とされるルカの祈りを共に学びます。
・主の祈りは、簡潔で要点をすべて含んでいます。まず神が「父よ」と呼びかけらように語られます。願う相手は「父なる神」です。私たちは「神」を「父」と呼ぶことが許されている、そして父であるから私たちの祈りに耳を傾けて下さると語られています。次に「御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈られます。主の祈りは共同体の祈りです。共同体の第一の願いは、「神の国が来ますように」との願いです。この世は悪に満ちています。しかしいつかは愛と正義の神の支配がこの地上に来る、その希望に教会は生きます。闇の中にある者は、光を求めます。詩編記者は歌います「私の魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」(詩編130:6)。困難な人生の中であなたなしには生きて行けない、だからどうぞ「主よ、来てください(マラナタ)」、「あなたが生きて、共にいて下さることを経験させてください」と祈ります。
・次に日毎の糧を求める祈りが祈られます「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい」(11:3)。当時の人々は食べることのできない貧しさの中で生きていました。「養って下さい」という祈りは切実な祈りでした。伝道に出かける宣教者は「何も持たずに行け」と命じられます。他人がもてなしてくれない限り、彼らは食べることが出来なかった。その厳しさの中で「今日を生きるための糧が与えられますように」と祈られます。またこの祈りは「私たちの祈り」です。私だけではなく、隣人も共に食べられることを待望します。
・最後に「罪の誘惑に負けないように」と祈られます。「私たちの罪を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないで下さい」(11:4)。私たちは弱い存在であり、常に誘惑に負けて罪を犯します。だから「罪の誘惑に合わせないで下さい」と祈られます。「誘惑に負けて信仰を失うことがないように」、祈ることが求められています。
・私たちの人生は試練と苦難の連続です。人は苦難があれば神を疑い、幸福な時には神を忘れます。箴言30:7-9に旧約版の「主の祈り」があります。「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないで下さい。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。まさに私たちの祈りです。

2.求めなさい

・主の祈りに続いて、イエスは「求める」ことを教えられます。祈りは願い求めることだとイエスは教えられます。「弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、真夜中にその人の所へ行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません』」(11:5-7)。普通の人はここであきらめるでしょう。しかし、信仰者はあきらめません。友であれば、固いかんぬきを開け、家族の安眠を妨げても、何とかしてくれるはずだと信じているからです。そして願いは応えられます。「しかし、言っておく。その人は友だちだからということでは起きて何か与えることはなくても、執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」(11:8)。神の救いを求める者は、閉じられた門が開かれるまで、しつこく門を叩き続けるのです。
・たとえの主人公が置かれている状況は厳しいものです。友人が来てくれたのにパンがない、だから友人のパンを求めて、夜中に人を訪ねています。この友人とは放浪する伝道者であろうと思われます。当時は宿屋等の宿泊設備ありません。さらに受け入れた人も明日自分の家族が食べるパンもない状況で受け入れています。イエスが言われたように、「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:36-36)という状況の中で、必死に求めているのです。このような必死の求めを神が拒絶されることはあり得ないとイエスは言われるのです。「神に迷惑をかけてまでも求めてよい、父なる神はそれを受け入れて下さる」のです。今、多くの教会で、「子供食堂」の働きが始められています。今日の豊かな時代でも、十分に食べることの出来ない子供たちがいるからです。私たちが子供たちの父になるのです。
・イエスは語られます「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(11:9-10)。願い求める者には父なる神は必ず応えて下さる。その確信をイエスは示されます「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」(11:11-13)。
・子供が高熱を出せば、親は日曜日だろうと夜中だろうと医者のところに行き、開けてくれるまで戸をたたくでしょう。子供が死にそうなのです。医者が起きてくれることが必要なのです。人間の医者が応答するのに、父なる神が応答されないことがあろうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この確信が信仰なのです。

3. 求める者には与えられる

・今日の招詞に使徒言行録2:17を選びました。次のような言葉です。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。イエスの復活後、弟子たちはエルサレムに集まり、「これからどうしたら良いのか」を求めて祈っていました。もうイエスはおられない、自分たちだけではどうしたらよいのかわからない。その時、弟子たちに聖霊が与えられ、聖霊を受けたペテロが語った言葉が招詞の言葉です。この言葉はヨエル書の中にあります。ヨエル書は捕囚から帰還した人々を襲ったいなごと干ばつの災害を前にして、落胆する民に、ヨエルが語った言葉です。ヨエル時代にユダを襲ったいなごの害は史上まれに見る悲惨なものでした。数億匹のいなごが大量発生し、地上の穀物や木々を手当たり次第に食べ尽くし、ぶどうの実はもちろん、その樹皮さえも食われ、ぶどうの木は立ち枯れ、もうぶどう酒を作ることもできません。小麦や大麦の畑の実りも食い尽くされ、農夫たちは泣き叫び、人々は絶望の声を上げました。その絶望の中で「主の名を呼び求めよ、主はあなたたちを見捨てられない」とヨエルは預言します。
・初代教会の人々は、自分たちへの聖霊降臨こそが、ヨエルの預言成就だと受けとめました。「イエスが復活された、自分たちに聖霊が下った。今まさに主の日が来ている」との高揚感の中で、ペテロは説教を始めます。使命感にあふれた説教は人々を動かし、その日だけで3千人が受洗したと言われています。ここに夢と幻という言葉が使われていますが、夢とは将来に対する希望です。キング牧師は「私には夢がある」(I have a dream)という説教しました。「いつの日か、白人と黒人の子どもたちが差別なく一緒にテーブルにつくことができる日」を夢見るという説教です。その夢は実現し、やがて黒人のオバマが大統領になりました。ヨエル書で言われている夢もこれと同じで、将来の希望という夢です。
・幻も、幻想という意味ではありません。英語訳聖書はこの幻を、ビジョン(vision)という言葉で訳します。ヨエル書で預言されている事柄も、ビジョン、将来に対する希望です。今、日本の教会は苦難の中にあります。新来者が減り、受洗者も減少し、教会員の高齢化が進み、60歳以上の比率が教会員の50%を超えるようになり、教会は将来の絶滅が予想される「限界集落」になったと叫ぶ人もいます。この流れは全世界的であり、人々は神の存在を疑い、宗教的な組織や施設に懐疑的な目を向け、教会の礼拝に参加する人が減少しています。
・それにも関わらず、私たちは毎週日曜日に教会に集まり、礼拝をしています。神が教会形成に必要な方を与えて下さると信じるからです。人々は豊かになりましたが、心は満たされていません。魂は渇いています。人々は福音を求めており、求めている人たちを、いかに教会に招くのかが私たちの課題です。「若者は幻を見、老人は夢を見る」、今、教会に必要なものはまさに、この「夢」と「幻」なのです。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を持てば、神は必要な人をお与え下さり、教会は再生します。


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02 24

2019年2月24日説教(ルカ10:38-42、必要なことはただ一つ)

1.マルタとマリア

・「マルタとマリア」の物語は、ルカ福音書だけが伝える物語です。客をもてなすために忙しく働くマルタが、ただ座ってイエスの話を聞いているマリアを「叱って下さい」とイエスに呼びかけ、それに対してイエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめられる場面です。
・物語はイエスが旅の途中にマルタの家にお入りになることから始まります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(10:38)。マルタ、マリアの姉妹はエルサレム近郊のベタニア村の住人です(ヨハネ11:1)。ヨハネによればイエスはこれまで何度もマルタとマリアの家に来られています。彼女にはマリアという妹がいました。「姉のマルタは、一行のもてなしのためせわしく立ち働いていましたが、妹のマリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10:39)とルカは書きます。マルタは長女で、既に両親が亡くなっていた家を取り仕切っていたのでしょう。彼女は一行をもてなすために台所で忙しく立ち働いています。
・しかしマリアはマルタを手伝わず、イエスの足元に座って、話を聞いています。客のもてなしをしようとしないマリアの態度に腹を立てたマルタはイエスに言います「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40)。マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに妹は手伝おうともしない」とマリアを批判したのでしょう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れません。「男は台所仕事をする必要はない、しかし女であれば手伝うべきだ」とマルタは考えたのでしょう。
・マルタは、イエスと弟子たちが長旅に疲れ、埃まみれであることを見て、手や足を洗う水を用意し、渇きをいやす飲み物を差し出しました。そして今、食事の支度に忙殺されています。しかし妹のマリアは食事の準備を手伝おうともせず、イエスの足元に座って話を聞いています。だから彼女はイエスに苦情を申し立てます。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。自分はこんなに忙しくしているのにマリアは何も手伝わない。自分の正しさが無視されている。そのことに対する腹立ちがマルタの言葉からにじみ出ています。
・同時にマルタは、手伝わないマリアをとがめようとしない、イエスの態度にも腹を立てています。マルタは献身的に家族のために尽くす一家の主婦でした。身を粉にして家族のために働いているのに誰も評価してくれない、その不満が爆発したのです。この不満は現代の日本においても、主婦の働きが正当に評価されず、多くの女性たちが不満を覚えているのと同じです。もし主婦が家事労働を外部に託し、家政婦やヘルパーに任せれば年間200万円から300万円のお金が必要です。主婦の働きによってそれぞれの家庭は維持されているのに、家族からは感謝の言葉もない。もう耐えられない、マルタの言葉に多くの女性が共感します。
・それに対してイエスは答えられます「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(10:41)。イエスはマルタの気持ちに気づいておられます。「マルタ、マルタ」、名前を二度呼ぶことの中に、イエスがマルタの気持ちを理解しておられることが読み取れます。ただイエスは彼女の問題点を指摘されます「あなたはあまりにも多くのことに、思い悩み、心を乱している」。そして語られます「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:42)。マルタは自分こそ正しいと思い込むことによってマリアを否定し、あまつさえマリアを容認するイエスを批判しました。「思い悩み、心を乱す」時に、他者の姿が見えなくなるのです。今日の応答讃美は新生442番「この世のつとめ、いとせわしく」です。「せわしくしているのはマルタだけではない」のです。

2.必要なことはただひとつ

・ルカは何故この物語を記したのでしょうか。ルカの教会は「家の教会」です。主日に家の教会に集まる人々にイエスの言葉が語られます。礼拝では、「御言葉を聴き」、その後に「主の食卓」が開かれます。当時の「主の晩餐式」は単に礼典としてパンとぶどう酒をいただくだけでなく、実際の食事をする愛餐会でした。ところが、集会の女性たちは、「食卓」の準備に忙殺され、御言葉を聞くことが出来なかった。女性がもてなしのために御言葉を聞くことができない、それは教会の在り方としておかしいとルカはここで警告しています。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食が準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。
・イエスの言葉は、現代の私たちに語りかける「主」の言葉です。イエスは、多忙な生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」私たちに語りかけておられます。イエスは言われます「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、私たちも、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、神の言葉に耳を傾け、御言葉に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、やるべきことがどれほど多くても、それを理由に御言葉を聴く機会を失ってはいけない。イエスを通して語られる神の言葉を聴いて、その言葉に生かされるようになることが、この多忙な現代社会に生きる人たちに必要なことなのです。

3.言葉を聞くことの大事さ

・今日の招詞にルカ8:14を選びました。次のような言葉です。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。イエスは大勢の人を前に、種まきの喩えを話されました「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。またほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:5-8)。
・11節以降で喩えの説明がなされますが、その中の一節が今日の招詞です。「御言葉を聞くが、途中で人生の思いわずらいや富や快楽に覆いふさがれて成長しない」と言われています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とここでもイエスは語られています。イエスにより神の言葉を語られた、しかし福音の種は様々な理由により成長できない。道端に落ちた種は鳥に食べられ、石地に落ちた種は水分の不足で干上がり、せっかく発芽した種も茨に(人生の思いわずらいに)捕らわれてしまい、実を結ぶことができない。イエスは言われます「思いわずらうことをやめ、福音の種に水を与え、日に当たらせ、茨があれば取り除きなさい。そうすれば種は百倍の実を結ぶ」と。
・思いわずらい、世の様々な出来事が私たちの信仰の成長を妨げています。ルカ14:15-24、盛大な宴会の喩えは印象的な記事です。「主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても人々が多忙を理由に断る。最初の人は『畑を見に行かねばなりません』と断り、次の人は『牛を買ったばかりなのでそれを見に行きます』と言い、別の人は『妻を迎えたばかりですので行けません』と答える。大貫隆氏は「イエスという経験」の中で語ります「日常の時間、つまりクロノスの根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が、生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」。私たちも心配事がある時や用事があるときは、主日礼拝を休みます。今週休んでも特段の支障はないと思うからです。でも本当に支障がないのか。
・映画監督の森達也氏は語ります「私たちはどこから来て、どこへ行くのか。私たちは何者か。いくら考えても正解などなく、考えることをやめる。それでなくとも忙しい、学校を卒業し、就職し、恋をして結婚する。やがて子供が出来て、小さな家を買い、会社で少しだけ昇進する。そのうち子どもは大きくなり、年老いた両親は介護が必要になる。考えなければいけないことは次から次へ出てくる」。そして自分の死の時を迎えます。しかしある時、立ち止まって考えることが必要です。「このまま死んでよいのか」、「人が人らしく生きるためにどうしても必要なものは何なのか」。それを考える機会を与えるのが御言葉の力です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。
・教会では多くの人が洗礼を受けますが、二年たち三年経つと、いつの間にか姿が消えます。世の思いわずらいや富や快楽への誘惑が、日曜日の礼拝よりも大きな力を持ち、人々の信仰を食い尽くすからです。イエスがマルタを通して私たちに語られることは、「あなたの忙しい仕事を一旦中断して、今は私の話を聞いたらどうか。パンも大事だが、命のパンはもっと大事なのではないか」ということです。「思いわずらいを一旦やめて、命のパン、神の言葉を食べよ。仕事を一生懸命にすることは大事だが、日曜日は主の日であり、仕事を一旦やめて礼拝に参加する、そして自分の人生の在り方と今後を考える。そうしないと魂が干上がってしまうのではないか」。イエスはそう語られています。


カテゴリー: - admin @ 08時03分09秒

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